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『定吉むかし語り』編者による補足

東川吉嗣  作成

  本書は、編集に當り原文通りを原則としたので、記述が事實と喰ひ違つてゐても、そのままとした。また脚註などで最低限の説明を加へたが、充分とは言ひがたい。ここではそれらを補ふために補足説明を行ふ。

ページ數行數問題の箇所説明
20後ろから一行目甚七の子の鐵田中鐵治郎。曾和佐次右衞門の妹「もゝへ」の夫。
25一行目猫憑きお婆様の名は「いち」。實際に死んだのは、田中家が夏見へ移轉して後。鐵をぢが猫を捨てに行つたのは、三本松とのこと。
27後ろから四行目河合又五郎寛永十一年、平成前三百五十五年、鍵屋の辻で渡邊數馬と荒木又右衞門に討たれた。その前夜は島个原に泊つたので「本陣宿に泊つた」と想像してゐる。又五郎の墓は、上野市寺町の萬福寺にある。(冩眞を押すと大きい冩眞が見られます。)
32後ろから四行三行り半江戸時代に離婚に際し、妻が夫に書かせた離婚證明書。再婚の自由を證明したもので、本文を三行半にかいた。東川なつは明治十二年うまれで、明治四十四年に佐那具の服部泰輔と結婚してゐるので、離婚に三行り半は辻褄が合はない。しかし、三下り半の習慣は明治にも殘つてゐたと考へると、全くの創り話でもないかも知れない。
41後から七行目小學校は箕曲村夏見は箕曲小學校の通學區で、東川の本籍地である名張町松崎町は名張小學校の通學區。夏見の坊垣からは距離的には同じ位。
箕曲小學校は松永屋敷(松永誠也の實家)跡に、名張小學校は藤堂家名張陣屋跡に、それぞれある。
松永は藤堂家の家臣。
41後から六行目勇三の父勇三は東川とみの妹「すゑ」の子。いし松は、すゑの夫「誠也」の通稱名。當時、名賀郡役所に勤務。
44後から六行目曾爾街道名張から奈良縣宇陀郡曾爾へ通じる曾爾街道建設に當り、曾和の分家の曾和喜代太が最初に盡力した。その縁で佐次右衞門が私費で記念碑建設を目論んだ。記念碑は現在、夏見の積田神社前にある。(平成十四年正月現在、道路擴幅工事で片付けられてゐる。)曾爾街道については、『伊賀國 - いがのくにふるさとはなし』の中の「伊賀國曾和家」も参照されたい。
47前から五行目ヌケソ淨瑠璃の『伊賀越道中雙六』の「鶴が岡の段」に、和田志津馬が見えなくなつた澤井股五郎を探して「股主々々どれへござつた。ぬけそとは手が惡い。人をころりと殺して置て、迯ふとは卑怯者」とあり、欄外の註に「ぬけそ─逃げる」とある。(塚本哲三編輯『海音半二出雲宗輔傑作集 全』大正七年、有朋堂書店、有朋堂文庫傑作集、第四八二ページ)
47後から二行目客馬車名張・上野間の乗り合ひ馬車。鐵道が行き渡る前には全國に驛馬車が普及した。
48一行目手首の無い定吉の實母「小さ以」は、帽子工場で働いてゐた時の事故で左手首を失つた。
49七行目前田、または後出夏見の坊垣小場のうち、高臺一帯は「カミヤシキ」、そのすぐ下は「マヘダ」、川沿ひは「ヘヤノカハラ」といふ。坊垣に續く高臺は「ウシロデ」といふ。
51一行目夏見の積田神社の裏から下比奈知へ抜けたすぐの小場。
51三行目香落曾爾街道の途中にある奇岩景勝の渓谷。
51三行目坊垣の地蔵當時、定吉が住んでゐた家から表通りへ出た所にあつた石佛。現在の位置は道路擴幅工事により、少し後ろへ引いて、下流へ移動してゐる。(冩眞を押すと大きい冩眞が見られます。)
60七行目蓮華の仕事蓮の葉の上に乘つた形の墓石。
63後から一行目うたのをば「うたの」は佐次右衞門のすぐ下の妹。紀州粉河の宮本米太郎の妻。
67六行目松本宗やん極めて腕の立つた指物師。定吉の親友。第五十九ページの冩眞の向かつて左端。
75六行目川崎さん川崎克。上野出身の代議士。川崎二郎の先々代。元來、天守閣の無かつた上野城跡に、産業振興のために天守閣に模した建物を建設した。
77後から八行目赤紙兵役の召集令状は薄赤色の紙に印刷されてゐたので「赤紙」と言はれた。
77後から七行目笑ひながら『留書』には、「戰爭に行くのは厭だ」と泣いた人があつた、と書かれてゐる。
93一行目荒塵鐵道兵の歌。『天翔艦隊』といふ優れたページを發表してゐる『天翔艦隊』の司令長官、天翔さんにヘへて戴いたところによると、「これは比較的有名な軍歌で、藤田まさと作詞、大村能章作曲の「黄塵」」とのこと。
98一行目楊維盛氏から貰ふた詩今は表装して額に入れてある。(冩眞を押すと大きい冩眞が見られます。)文面は「一國/蘭草亂/如蓬葉/焼花甜/氣候濃迎/風送春/非不遠□能/送到俗塵中/民國廿七年 爲/東川先生大人順正/法学士楊維盛」と讀める。
  このほかに、別の人から貰つた「中日友好」と書いた書もある。
113十一行目外科手術定吉の話では、後日、その手術の後がどうなつたか尋ねたところ、傷跡を消毒しに、通つてゐると言つてゐたとのこと。
115三行目進め機關車よ鐵道兵の歌で、『天翔艦隊』の「軍樂隊」に歌詞と曲が紹介されてゐる。
147五行目北谷名張の電機屋。東川とみの母方の親戚。
149二行目松永春春子。東川とみの甥「勇三」の妻。
152一行目徴用戰時下の國民総動員で政府指定の軍需工場へ職場指定された。定吉は鍛造工として海軍工廠へ徴用されたので、千葉鐵一では鍛造工としての職業訓練を受けた事が判る。千葉鐵一では、鐵道運轉と鍛造に分けて職業訓練を行ふたといふ。國民総動員での「徴用」は後に、當時日本國であつた朝鮮や臺灣にも適用されたので、これを「強制連行」と表現する人がゐるが、作爲的で不適切な表現である。
154後から三行目もゝのをば佐次右衞門の妹「もゝへ」。上長瀬は佐次右衞門の母の實家、羽後(はのち)のこと。
158二行目現役、補充國民皆兵制度での兵役區分。陸軍では滿二十歳で兵隊檢査を受けて合格すると、二年間、現役兵として徴集される。現役兵員を超えた兵役適格者は補充兵に區分される。
159一行目後からだから知らぬ隊列の後から上級の者が追ひ抜いた時は、隊の後の者が聲を掛けて隊長に促して敬禮をするが、定吉は部下が促さなかつた事をとがめずに、少尉に「知らぬ」と言ひ張つた。
185後から八行目引退祝ひの石碑大和郡山の北柳生の墓地に「鳴瀧源藏」の石碑がある。また「三笠山」の自然石の碑が名張市元町の宗泰寺にあつたが、現在は行方不明。現在、宗泰寺にある「三笠山」の石碑は別人の物。
204三行目奈良監獄奈良監獄と同時期に同じ設計者により建設された千葉監獄で「脱獄實驗」が行はれたことが、奈良監獄設計者、山下啓次郎の傳記に紹介されてゐる。山下洋輔著『ドバラダ門』(平成五年、新潮文庫、第百三十八乃至百三十九ページ。)奈良監獄の建物は現在の奈良少年刑務所で、明治三十六年、竣工。奈良市般若寺町十八にあり、明治煉瓦建築の代表として知られてゐる。
206一行目領主が違ふ明治以前の伊賀は総て藤堂藩領であつたが、名張町域は藤堂宮内家の支配下にあり、國津は上野の藤堂家の支配下にあつた。



『定吉むかし語り』
『定吉むかし語り』正誤表
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この網上葉の履歴
○平成二十五年六月四日、電子飛脚の宛先を變更。
○平成二十四年一月三十一日、引き紐の宛先を修正して、再編輯。
○平成二十一年八月六日、引き紐の宛先を修正して、再編輯。
○平成二十年一月二十七日、誤字訂正。
○平成十九年十二月十日、電子飛脚宛先を變更。
○平成十九年正月十日、電子飛脚宛先を變更。
○平成十六年六月十一日、引き紐の先を訂正。
○平成十六年二月十七日、「引退祝ひの石碑」に冩眞を掲載。
○平成十六年正月六日、「河合又五郎」の墓の冩眞を掲載、「曾爾街道」の説明を追加。
○平成十五年十一月十日、「引退祝ひの石碑」に引き紐を着けた。
○平成十五年四月十七日、「楊維盛氏から貰ふた詩」の説明を追加。
○平成十四年八月二十八日、「ヌケソ」の説明を追加。
○平成十四年七月四日、増補。
○平成十四年正月三十日、「奈良監獄」の説明を追加。
○平成十四年正月二十五日、「小學校は」、「曾爾街道」および「坊垣の地蔵」の説明を補充。
○平成十三年正月八日、増補。五月六日、更新。
○平成十二年八月十五日、掲載。

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